日本のシャンソン・ブーム(3) その余韻 1958(昭33)年 ~

 宝塚は昭和30(1955)年代に第2次黄金時代を迎えます。レヴューには座付き作曲家の曲のほかヒット・シャンソンも採用。1960『華麗なる千拍子』に<幸福を売る人>、61『フォルテで行こう』で<ラストダンスは私に>、65『エスカイヤ・ガールズ』に<ブルージーンと革ジャンパー>など。選曲には宝塚ファンの蘆原英了が助言しています。発売レコードは増加の一途です。1982(昭57)年にCDが登場して、LPのアルバムをCD化したり、はじめからCDでアルバムやシングルを発売します。邦人歌手や来日歌手は公演で歌うほかラジオ番組に出演しました。ジャクリーヌ・フランソワニッポン1968.1.10、トレネ特別演奏会NHK59.3.8、ようこそグレコ文化61.11.27、モンタン特集ラジオ関東62.4.10とニッポン62.4.17。多数の単発のDJ番組のほか、帯番組には蘆原英了解説『午後のシャンソン』 NHK1968~77、薩摩忠『パリの心』詩とシャンソン FM東京1970~71など。

 映画『シャンソン・ド・パリ』1958ではイヴ・モンタン56年ソ連公演での<枯葉><パリのフラメンコ><セ・シ・ボン>など16曲が鑑賞できて、モンタン・ブーム、シャンソン・ブームがおきました。『アイドルを探せ』63は作曲担当のアズナヴール<想い出の瞳>、主題歌をシルヴィ・ヴァルタンが歌いヒット。ミシェル・ルグラン作曲ミュージカル『シェルヴールの雨傘』64ダニエル・リカーリ(陰唄)。『男と女』66はフランシス・レイ作曲、作詞のピエール・バルーとニコル・クロワジルのデュオで大ヒット。『天使の誘惑』68と『長距離歌手の孤独』74では芦野宏とモンタンの<さくらんぼの実る頃>が聴けます。ピアフの映画は『愛の讃歌』1973,2007ほか。モンタンの自伝的ミュージカル『想い出のマルセイユ』1988とドキュメンタリー『パリに抱かれた男』94。

 リサイタル[コンサート]、1950~60年代に全国で多くのシャンソン公演を主催していたのは労音[最盛の65年272団体]で、公演数が多いのは岸洋子、芦野宏、高英男、石井好子。ほかの歌手たちも相当数の公演を都・市・町の労音で開催。1970~2000年代、71年に芦野宏1週間連続、周年と節目に2006年まで。越路吹雪は日生劇場で11日~1カ月ロングリサイタル68~75年、72~80年に春・秋と全国縦断。岸洋子イイノホール60年の後、73年に日生12日間、1974,85年NHKホール。高英男は74年から帝劇5年連続、1982,87年ポピュラー歌手で初めて国立劇場。石井好子76年30周年後も節目ごと、2002年80歳・都響と歌う。スターをはじめ歌手たちはみな全国の音協・民音ほかの鑑賞団体による各地での公演や、音楽事務所・後援会による自主公演を周年や毎年など開催。1960年代後半からクラシック、ポピュラーともディナーショーがはじまり恒例化しました。

 1980年代には、銀巴里での大入りつづきと長年の全国コンサートで「金子由香利ブーム」がおこり、1987年に年末恒例の総ジャンル歌手が出演する国民的行事『NHK紅白歌合戦』出演。また世紀末も近いころから「美輪明宏ブーム」があり、美輪は21世紀2012~15年『紅白』に出演します。ふり返って、1953(昭28)年シャンソン・ブームがきざすころから71(昭46)年までに『紅白』に出場したシャンソン歌手(ラテン、カンツォーネ、タンゴも)は、淡谷のり子、高英男、芦野宏、中原美紗緒、越路吹雪、石井好子、島崎雪子、岸洋子ら8人。日劇レヴュー、ショーは1958(昭33)年以降『新春スターパレード』58~66、『春のおどり』58,60、『秋のおどり』58、『我が心の歌』59、『東京ヴォードビル』60、『黄金の歌声』59、『夏のおどり』63、『グランドショー』64、『特別公演』66などに越路、丸山明宏、淡谷、高、石井、中原、島崎、岸らが出演し、岸洋子は労音での活躍によりワンマンショー1970年6日間、71年4日間が催されました。1981年に日劇は惜しまれて閉館。

 来日歌手とテレビ: 2度目のイヴェット・ジロー以降、歌手はほとんどテレビ出演と全国公演をします。『ジャクリーヌ・フランソワ リサイタル』日本1958.1.9。『シャルル・トレネ リサイタル』フジ59.3.6、59年テレビ朝日開局。『ジュリエット・グレコ リサイタル』TBS61.12.10。イヴ・モンタンは2度の中止後グレコから聴衆のすばらしさを聞いて、62年「3度目の正直」、7都市18公演と『モンタン リサイタル』TBS62.5.27で2度目のブーム。『ジローとともに』日本62.7.14にはゲスト芦野宏・石井好子・F.モレシャン。『ベコーは歌う』TBS63.3.14。64年ジジ・ジャンメール。64年テレビ東京開局。65年2度目のグレコと初のシルヴィ・ヴァルタン、66年ジローとジャン・サブロン、67年はじめてのアダモとマシアス、2度目のJ.フランソワ、68年アズナヴール初公演、2度目のマシアスとアダモ。…。82年モンタン20年ぶり2度目。89, 92年リーヌ・ルノー。1953(昭28)年 ダミアから2018(平30)まで60人以上、ジロー40回ほど、アダモ30回、グレコ20回、ベコー13回、アズナヴール11回、マシアス10回、ヴァルタンとデュテイユ9回、ヴォケール8回。

 テレビではNHKG&BS:芦野宏『夜のしらべ』1961~62、黄金のいす「みんなのシャンソン」65など。1970年代『ビッグショー』ムスクーリ、高、淡谷、越路。『歌伝説』越路、岸。『わが歌わがパリわが人生–モンタンの世界』81、『モンタン81オランピア公演』82、『わたしたちの巴里祭』83芦野宏ほか、That’s Music 85岸洋子、87芦野宏&中原美紗緒。モンタン、ピアフ、トレネなど9人『シャンソン・ド・パリ』88~90、なかにし礼ほか『思い出のモンタン』1992。石井音楽事務所『パリ祭』1997~2010。Antenne2『シャンゼリゼ』ムスクーリ、アダモ、マシアス、ほか1982~90。テレビ朝日:題名のない音楽会「わが青春のパリ祭」77、「アデュー・シャンソン」78、「原語シャンソン」93、「文学的シャンソン」93、ジロー「さよならジャポン」97。TBS:『音楽の旅はるか』80年代「モン・パリ」「すみれの花咲く頃」。MX:芦野宏ほか『シャンソンを貴方に』2000~06。

 パリ祭、ブーム・ピーク1957年の翌年からも芦野宏は「巴里祭リサイタル」を58,60,63年とつづけ、59年『石井好子・高英男パリ祭シャンソンの夕べ』。1961(昭36)年には石井好子[事務所]が深緑夏代、石井祥子ら6名で第1回『パリ祭の夕べ』7.13(日比谷野音3114席)を催しました。ジローを迎えた62年の2回目に芦野宏も初参加し、石井、深緑ほかで9名、石井と芦野は以後半世紀も連続出演。第3回の63年には常連の年長者らに初の中原美紗緒が加わり12名。64年には岸洋子、小海智子が初参加で総勢15名です。事務所はシャンソン・コンクールをはじめて以後は優勝者も出演させます。翌々66年にジャン・サブロンとジローがゲスト。開催日は第1回61年の7月13日のほかは革命記念日7.14でしたが、やがてその前後になり会場も日比谷から都内各所に移り近年はNHKホール(3601席)です。1962年から前夜祭(日比谷2085席)も催し、1967年から全国縦断公演へと発展しました。革命200年の1989年にはリーヌ・ルノーを迎えて華やかでしたが、97年パリ祭は分裂し翌年に一本化されたようです。現在も毎年7月には主催や規模は大小さまざまに「パリ祭」が全国各地で開催されております。読売主催「パリ祭フェスティバル」1957.7.15のあと、石井好子は61.7.13から「パリ祭」を年中行事として恒例化した大立者のプロデューサーでした。

 シャンソン喫茶:学資かせぎのなかにし礼と、永田文夫も訳詞をうけおっていた銀巴里、1958年以降の出演者は岸洋子、仲代圭吾、戸山英二、有馬泉、金子由香利、堀内環、森田宏、大木康子、しますえよしお、石井祥子、村上進、田代美代子、宇野ゆう子ら(以下割愛)。歌手たちはブームのはじめから関西も含めた、いくつかの店で専属かゲストとして歌い、のちの大御所たちも歌い育てられました。新開店は日航ミュージックサロン59、60年代に蛙たち、青い部屋、ブン、Qui、ジァンジァン(110席)など、70年代なかがわ、エスパース・ジロー、シャンパーニュ、ラ・ベル・エポック(70席)、サロン・ド・リベルテ、マ・ヴィ、オ・シャンゼリゼ(20席)、アダムス(30席)、鳩ぽっぽ、ピギャール、プチ・メゾンなど、80年代にんじんくらぶ、レッド、ウナ・カンツォーネ、レ・コパン、あばんせ(→30席)、蟻ん子(60席)、プリムラ、PARDIS、90年代LILASほか50軒以上、ピーク後70~80年代にかなり廃業。大阪ベコー1979、名古屋エルム86。87年に80軒だが、バブルの90年頃は60軒以上とも。1990年に銀巴里閉店。1995年シャンソン界の重鎮・芦野宏が世界初の『日本シャンソン館』を渋川市に創設(現館長羽鳥功二)、館内にシャンソニエ「ヴェルメイユ」(105席)。サラヴァ東京(100席) 2011、京都巴里野郎(42席) 13再開。1991.9日本シャンソン協会発足[このころ歌手は約300人、会長・石井好子→2010.7芦野宏]、2012.6から代表理事・羽鳥功二のもと歌手・作詞家・評論家・ファンらでシャンソンの普及と業界の発展に努めております。

 シャンソン教室は菅美沙緒が大阪1962と京都65に、70年代は東京に宇井あきら、深緑夏代、堀内環らが開きました。80年代にはカルチャーセンター(CC)などに講座ができ、芦野宏は83年に朝日CCで鑑賞講座を担当。またグループ・個人レッスンも多数あり、発表会、コンクールなど、生徒と歌手とファンで、シャンソン人口は全国では膨大な数にのぼるでしょう。(2020.11.18) 後藤光夫©