日本のシャンソン・ブーム(2) そのピーク 1957(昭32)年

 ブーム・ピークの1957(昭32)年に、宝塚では初演30周年の『モン・パリ』が再演されます。

レコードはこれまでほとんどがコロムビア社のSP盤でした。業界では1951年にLP盤アルバム、54年にEP盤シングルが発売されます。会社はコロムビアのほかポリドール、ロンドン、エンジェル、ビクター、エピック、キング、ヴェガ、ウェストミンスター、日本ディスクなど。日本発売総目録(「シャンソン」誌1957別冊)にはモンタン、ジロー、グレコ、カトリーヌ・ソヴァージュ、パタシュ、ジャクリーヌ・フランソワ、ブラッサンス、リュシエンヌ・ドリール、トレネ、リュシエンヌ・ボワイエ、アンドレ・クラヴォー、ティノ・ロッシ、ピアフ、中原美紗緒、高英男、越路吹雪、芦野宏、石井好子ほかで1000曲以上がリストアップされています。シャンソン・レコードの売れゆきはウナギのぼりでした。なかでもモンタン<枯葉>、ジロー<詩人の魂>はそれぞれ5万枚ちかく売り上げたといわれ、ダミアが少なくなり、映画『巴里野郎』の主題歌<パリ・カナイユ>のソヴァージュが健闘しております。シュヴァリエ、ミスタンゲットはボチボチといったところ。山葉ホールで毎月1回、蘆原英了の新曲解説『レコード・コンサート』は入場券が早ばや売り切れてしまうほどの人気でした。レコード鑑賞とライヴのシャンソン喫茶もふえました。前掲シャンソン誌の発行者・永田文夫は21世紀までラジオ、レコード解説、訳詞などで普及に携わります。

 ラジオでは『イヴェット・ジロー特集』文化1957.1.27,2.1があり、邦人歌手はショー、放送、シャンソン喫茶などにひっぱりダコでうれしい悲鳴をあげるほど大忙しでした。音楽番組にはシャンソンが25~30%を占めています。歌手は宝塚と芸大・音大出のクラシックやそのほかからの転向者で約200人はいたようです。シャンソン愛好者はというと約30万、ジャズファンを追い越しそうといわれました。1957年の映画は『悲しみよ今日は』グレコ<同名歌>、『リラの門』ブラッサンス<わが心の森には>、『パリの不夜城Folies Bergère』ジジ・ジャンメール<パリ・ボエーム>、『昼下りの情事』演奏<魅惑のワルツ><セ・シ・ボン><詩人の魂>、『河は呼んでる』ギイ・ベアールなどが公開され、<河は呼んでる>は訳詞でうたった中原美紗緒の歌がヒットしました。

 1957年リサイタル(コンサート)は越路吹雪3日間連続(山葉524席)、石井好子の帰国(3月日比谷2085席)・送別(10月読売1100席)、丸山明宏(7月日比谷)、高毛礼誠(10月山葉)。芦野宏が1週間連続(11月山葉)、さらに大阪労音3月に9日間で12回(朝日)と記録更新〔芦野宏は1971年にも石井MPで1週間(6月ヤマハ)〕。日劇は多ジャンルのレヴューのなかで1950年代はシャンソンが多く、高英男、丸山明宏らの『ライラックタイム』、芦野宏、中原美紗緒、寄立薫らの『パリのどこかで』など。

 来日歌手は2度目のイヴェット・ジローが東京、大阪、神戸、京都、名古屋、仙台、札幌など12都市を巡演し、合間にテレビNHK『イヴェット・ジローの夕』57.2.1とTBS[ゲスト芦野宏・ビショップ節子]2.17に出演。53年の1度だけだが強い印象を残したダミアと3回以後も数えきれないほど来演したジローは、日本のシャンソン・ブームの先駆をなしました。この年フジテレビが開局。

 パリ祭はまず高英男・芦野宏・丸山明宏・宇井あきらの『パリ祭シャンソンの夕』7.14(日比谷野音)、翌日は読売主催『巴里祭フェスティバル』7.15(読売)があり、出演者は芦野宏、深緑夏代、福本泰子、高英男、越路吹雪、草笛光子、宮城まり子、森繁久彌、高島忠夫ら18人と原孝太郎・寺島尚彦それぞれの楽団ほかで「東京で第1回のパリ祭」といわれた大規模な祭典でした。パリ祭の前後にも規模の大きいガラコンサートがあり、4月に芦野宏ら3人と新人10人で『シャンソン誕生』、11月の芸術祭参加『シャンソンの集い』には芦野宏ほかベテラン3人に若手を含め40人が参加しました。

 東京のシャンソン喫茶はピークの1957年までにできた約30軒が大繁盛。関西では56年フレンチカンカンが京都に開店したあと、57年には大阪にスパニョーラ(600席)とミラボー(80席)、巴里がオープン。都内にはすでにシャンソン歌手を養成する専門学校、東京シャンソン学院〔院長:高木東六、講師:淡谷のり子・芦野宏・深緑夏代・橘薫・宇井あきら・薩摩忠・内村直也ほか〕と日本ジャズ学校シャンソン科〔科長:蘆原英了、講師:淡谷のり子・高英男・菅美沙緒ほか〕の2校があり、京都の京都シャンソン教室は講師:寺島尚彦・芦野宏ほかの陣容でした。(2020.10.18) 後藤光夫©