歌手のパリ・デビューと引退

 歌手がいつ・パリのどこでデビュー・活躍・引退したのかは興味があります。シャンソン歌手はほとんどがパリを生活と活動の拠点にしていたようです。パリ・デビューの年齢は歌手により年齢差があり、歌いはじめてどの時点をもってデビューとするのかがむずかしい場合もあります。また人の死期は神だけが知るので、引退と銘うたないで最後の公演となることもありました。
★アリスティード・ブリュアン(1851~1925) 74歳 <シャ・ノワール>ブリュアン作詞作曲
 パリの南東100キロほどのブルゴーニュ地方クルトネに生まれ、移住したパリで働きながらシャンソンを書いて歌っています。詩はのちに現実派シャンソンの元祖といわれるような内容だったようです。デビューしたのは1876年ごろ場末のカフェ・コンセールでした。歌ったり自営・所有したりしたのはモンマルトルの芸術キャバレ「シャ・ノワール黒猫」「ミルリトン」や「ラパン・アジル」ほか、都心のアンバサドゥール、エルドラドなどにも進出して活躍しました。いでたちもロートレックのポスターに見られるように押しだしがつよい。ベル・エポック最大の作詞作曲家兼歌手と評されます。晩年の1924年にはアンピール劇場(3000席)の要望で15日間うたい、銘うたないが引退公演となり、3カ月後の1925年2月11日に亡くなりました。
★イヴェット・ギルベール(1867~1944) 77歳 <辻馬車>グザンロフ作詞作曲
 パリに生まれ働かない父親の家庭で母親とともに貧しい境遇に育ちました。女優志望から歌手へ転向し、小さな小屋で歌いはじめ1888年にデビュー。カフェ・コンセールなども当たったが、目がでません。評判になったのは1891年ディヴァン・ジャポネ出演から。ロートレックの描く長い黒手袋がトレードマークで、シャンソンを語るように歌う朗唱家「世紀末の歌手」と称賛されました。歌唱法は多くの後輩たちの模範になります。ブリュアンとともに同期最大の歌手のひとり。代表曲は<辻馬車>ですが、<マダム・アルチュール><こんなに愛されるなんて>などは作詞作曲し、古いシャンソンを発掘して<イエス・キリストのバラード><ロイ王の娘>など優れた作品に復活させました。1939年に引退し、44年に南仏エクサン・プロヴァンスで亡くなります。
★ミスタンゲット(1873~1956) 83歳 <サ・セ・パリ>ボワイエほか作詞・パディーリャ作曲
  パリ郊外の生まれで目立ちたがりの活発な子だったといいますから、芸人に向いていたのでしょう。まだ小さな小屋だったカジノ・ド・パリで歌いはじめますが、正式なデビューは1895年トリアノン・コンセールでやがてエルドラドへ移ります。あとは念願のムーラン・ルージュ、フォリ・ベルジェール、豪華になったカジノ・ド・パリなどのレビュー小屋へ進出、大階段ショーで大評判ののち1926年ムーラン・ルージュの『レビュー・ミスタンゲット』『サ・セ・パリ』は記念すべき大成功を収めました。歌えて踊れて芝居ができて、羽飾りに脚線美で魅了し熱狂させた、20世紀最大のレビューの女王、ミュージックホールの大スターとして不世出で空前絶後の存在とまでいわれます。1949年76歳でABC『パリは楽しむ』出演後51年に引退、56年に人生を閉幕しました。
★モーリス・シュヴァリエ(1888~1972) 84歳 <ヴァランティーヌ>ヴィルメッツ詞・クリスティネ曲
 パリ20区の下町メニルモンタンの生まれ。父親が家を出てしまい貧しく、めざした軽業師はケガであきらめ歌手を夢みます。生活のためにあれこれ丁稚奉公をしつつ、歌手はあきらめないで何度目かに1901年カジノ・デ・トゥーレルでプロの道へ、13歳のデビューです。カフェ・コンセールを転々したのちエルドラド、1908年フォリ・ベルジェールへ。そこでミスタンゲットと共演して恋仲にもなり、キャリアをつみレビューの王様へとのぼりつめます。ショーにスモーキングとカンカン帽姿でうたい、1921年からはオペレッタでも人気を博します。28年ニューヨークで映画に何本か出演して世界的スターになり、34年の帰国後と戦中41・42年にもカジノ・ド・パリのレヴューに出演。戦後48年シャンゼリゼ劇場(1905席)でのリサイタルは44回もの空前の記録となり、54年は60回にも及んだ歌手生活55年記念リサイタルで引退を表明しました。ファンは引退を許さないとか「今度こそ本当か」など新聞に書かれながらもアルハンブラほか劇場をかえて引退興行がつづき、1968年再びシャンゼリゼ劇場で開催して完全に引退し、1972年元旦に亡くなりました。
★シャルル・トレネ(1913~2001) 87歳 <ラ・メール>トレネ作詞・トレネ、ラスリー作曲
 南フランスの地中海沿岸に近いナルボンヌで1913年に生まれ、音楽を愛好する家庭で育った文学青年でした。デュオを組んで歌ったあと兵役中に作った歌<喜びあり>がシュヴァリエに歌われて有名に。除隊後の1938年ソロ・デビュー、ABC劇場に前座で出演し観客が熱狂して真打ちの出番に食いこむ熱演で、一夜にしてスターダムにのしあがりました。歌う映画にも何本か出演。大胆な詩、ニューリズム、独創的な音楽で、ベル・エポックからの伝統的なシャンソンに新しい息吹きを吹きこみシャンソンを革新しました。戦後のシャンソン界に大きな影響を与えた改革者です。1975年62歳のオランピア公演で引退を発表し、海外公演は79年まで。あとは隠居の身でした。それが81年に新譜を出したのち83年カナダで公演、さらに87年シャンゼリゼ、88年シャトレの両劇場、89年パレ・デ・コングレ、93年[傘寿]オペラ・バスチーユ、最後は99年サル・プレイエルでこれが引退公演でしょう。いずれも大会場。2000年アズナヴールのパレ・デ・コングレ公演の時が公の場に姿を見せた最後になりました。2001年にパリ郊外クレテイユの病院で亡くなります。
★エディット・ピアフ(1915~1963) 47歳 <バラ色の人生>ピアフ作詞・ルイギイ作曲
 パリ20区メニルモンタンのシーヌ通りで1915年に生まれ、10歳から路上で歌いはじめます。35年に、翌年殺害される経営者ルイ・ルプレに見いだされてナイトクラブでデビュー。改名したエディット・ピアフの本格的なデビューは1937年ABC初出演です。同棲した作詞家レイモン・アッソから全人的に、歌手としては作曲家マルグリット・モノーに指導をうけました。38年ボビノ初出演はじめいくつかの劇場に出て、録音・映画にも取り組んでスター街道をつき進みます。惚れっぽく同棲や結婚して才能を発掘した相手は、モンタン、アズナヴール、セルダン、ピルス、ムスタキ、デュモン、サラポなど。苦境の劇場に出演して倒産から救うような「20世紀最大のシャンソン歌手」ですが、4回の交通事故、手術による麻薬中毒にさいなまれる身でした。1963年2月ボビノ、翌月に北仏リール市でうたい、これが最後の舞台となりました。10月10日に転地療養先の南仏カンヌで息を引きとりますが、「パリで死にたい」との願いが叶えられ、公式の命日は翌日の11日に。
★イヴ・モンタン(1921~1991) 70歳 <枯葉>プレヴェール作詩・コスマ作曲
 イタリア・フィレンツェ近郊のモンスマーノ・アルトで1921年に生まれました。家族は彼が3歳のとき渡仏し、渡米がかなわずフランスに帰化。幼時から働きながらラジオや映画で覚えたシュヴァリエ、トレネをまねてノド自慢大会に出たりして、地元マルセイユの由緒あるミュージックホールに出演しました。第2次大戦中にパリへ上京し、1944年ABCに出演してカウボーイ姿でその歌などを歌いました。そしてムーラン・ルージュにおけるピアフの前座に出演します。彼女の薫陶と本人の努力で、あとは1945年から8回のエトワール連続リサイタルが前人未到の記録的なものになり、映画にも出、オランピアでの2回1968,1981の間には13年間も映画に専念しました。戦後フランスで唯一の国際的スーパースター「世界の恋人」といわれます。妻シニョレが亡くなり後妻アミエルとの間に息子ヴァランタンが誕生し幸せな日々でしたが、1991年映画のロケ先パリ北北東51キロのサンリスで急逝しました。最期に彼は「十分に生きたので悔いはない」と。92年ベルシー・アリーナ(20300席)で、もしかしたら引退公演としてのリサイタルを予定しておりました。
★ジュリエット・グレコ(1927~ ) <そのつもりでも>クノー作詩・コスマ作曲
 南仏の地中海沿岸に近いモンペリエに1927年に生まれたが、幼時はボルドーなどでも過ごして7歳のときパリに移住します。あこがれの舞踊学校にはいるが、戦争で夢やぶれ戦中43年にはパリでひとり恩師のもとに身を寄せました。志望をかえて俳優をめざし、1944年パリ解放後はサン・ジェルマン・デ・プレで演劇と映画を模索。詩人アンヌ・M.カザリスと友人になり地下酒場タブーにいり浸り、そこにはボリス・ヴィアンらが演奏し、サルトルらも顔を見せていました。彼女は「実存主義の女神」とか海外からも持てはやされます。彼らに勧められ1949年には屋根の上の牡牛で歌手デビュー、サルトル<ブラン・マントー通り>ほかコスマ曲。ついでローズ・ルージュ、ボビノ、トロワ・ボーデなどにも出演し、あとは大歌手への道へ。「2015年1月グレコ(87歳)引退、4月の音楽祭出演を最後にして」との報道あり。いまは南仏で余生を過ごしています。(2020.7.18)  後藤光夫©