夢のあとに(13)パリ18区 後半 ラパン・アジル Cパタシュ

 パリの最北18区、ブランシュ広場のムーラン・ルージュわきから北上するのが<さくらんぼの実る頃>のジャン=バチスト・クレマンも住んだ<ルピック通り>です。街のようすはその曲名でモンタンが歌うとおり。左岸のムフタール通りほど観光的な知名度はないが、肉屋、魚屋、八百屋、パン屋、お惣菜屋、乳製品店などが軒をつらね、朝な夕なに市もたつ商店街です。すこしのぼって右側に小さなA.ブリュアン通り、カフェ・ブリュアンが見えます。通りをさらに行くと、86番地2にジャック・ドゥーエが早くから<枯葉>1947を歌っていたという《シェ・ポム》36~66があったそうです。大きく右折するとムーラン・ド・ラ・ガレット、ムーラン・ラデの風車が見えました。
 丘の上でJ.-B.クレマン広場は横目にみて、ジュノー大通りをくだります。番地は不明ですが、ボワイエが《シェ・リュシエンヌ》という店を経営していました。芦野宏がNHKの磯村尚徳さんに案内されて1960年にうかがったときは、まず娘のジャクリーヌがうたい、芦野も<ラ・メール>を、リュシエンヌは<聞かせてよ愛の言葉を>を歌ってくれたという。近くにビュイッソン小公園があり、奥のほうにサン・ドニ像が立っています。すこしくだるとダリダ像のあるダリダ広場です。その下のC.ペクール広場には超有名なポスター「シャ・ノワール」のスタンラン記念像があります。ユトリロのお墓参りにはいったサン・ヴァンサン墓地ではマルセル・カルネ監督に逢いました。
 モンマルトル博物館(コルト通り12,開館1960)はルノワールやヴァラドン・ユトリロ母子、デュフィもその一画に住んだ古い建物です。受付・売店・中庭をへて、展示館には狭い各室に貴重な実物を展示。先年2006の老監視員だけとちがい、2012年には複数の若い女性学芸員が大はりきり。絵はアンドレ・ジル「ラパン・アジル原画」、ユトリロ「教会風景」、ヴァラドン「ロシア女性」、デュフィなど。催し物ポスターはロートレック「ブリュアン」、スタンラン「シャ・ノワール」ほかラパン・アジル、ミルリトン、ディヴァン・ジャポネ、ムーラン・ルージュなど。モンマルトルの風景画と立体模型地図。ワイン棚・ボトル、タイプライター、電話、机・椅子、ピアノ・ギター・ヴァイオリンまで。椅子にかけたヴァラドンのヌード写真も。モンマルトルの歴史を想起させます。
 博物館最上階からは丘の北側中腹にブドウ畑、サン・ヴァンサン通り、ソール通り、ブリュアンが住んだ家などが見おろせて、その隣りはシャンソン酒場《ラパン・アジル》です。店名「殺人たちの酒場」だった19世紀末から20,21世紀も現存し、店主フレデ、客にはピカソ、ブラック、アポリネール、ローランサン、ジャコブほか。歌ったのは常連ブリュアン、カルコほか、A.パスドック1933、リナ・ケティ1934デビューして4年間、ブラッサンス1944ぜんぜん客にうけず落胆。
   ブリュアンの<白いバラ>は薄幸な娘の歌なので、見舞いの花束を題にした歌と紛れないように<サン・ヴァンサン通り>が適切でしょう。F.カルコは著書『モンマルトルからカルチエ・ラタンへ』(井上勇訳「パリの冒険者たち」)がおもしろい。カルコがラパン・アジルのテラスで作詞したという<懐かしい居酒屋>1931(ラルマンジャ作曲)、本人のは聴けないが、8人を聴いたなかでカルコの解説つきルネ・ルバがいい。店の左わきにガストン・クーテ通りがあり、G.クーテとは常連の詩人であり<踊ろうよ>ほかがあります。M.モレリ、ヴォケールが歌っているようです。
   「私は悲しい 私は悲しい/ラパン・アジルに行って、失った青春を思い出そう/そして何杯か飲もう/それからひとりで帰ろう」  ブレーズ・サンドラール(1887~1961) アポリネール前衛誌会員 
  サクレ・クールに近いモン・スニ通り13にはかつて《シェ・パタシュ》1948~70がありました。ルフランを唱和しない客のネクタイ切りで有名でした。女主人パタシュは店でうたいシュヴァリエの後援もあり歌手になり、また詩人・歌手ブラッサンス1952を世に出し、ジャック・ブレル53も出演させました。西側へもどればモンマルトル墓地です。まず目をうばわれたのはダリダの墓標でした。ついでジョセフ・コスマをめざしたら、フランシス・ロペスに逢えて感激しました。あとはアンリ・ソーゲ、アドルフ・アダン、レオ・ドリーブ、そしてジャック・オッフェンバックです。
   東部にはエリュアール広場、F.カルコ通り、B.ヴィアン通りが散在。その通りに近いユトリロ画サン・ベルナール・ド・ラ・シャペル教会はルイーズ・ミシェルの革命クラブでした。(2020.1.18)  後藤光夫©