夢のあとに(7)パリ9区 後半 Fベルジェール カジノdP

 パサージュ・ヴェルドーに近いリシェ通り32のカフェ・コンセール《フォリ・ベルジェール》1869,2000席+遊歩場[マネBar1882]が1872年ミュージックホール化し、レヴューを創めたのは『若者の出番だ』1886においてでした。スペクタクルなグランドレヴューの先駆をなします。「レヴューの王様」といわれたM.シュヴァリエ(愛称モモ)と15歳年上で芸歴も大先輩の「レヴューとミュージックホールの女王」ミスタンゲット(愛称ミス)との初顔合わせはこの劇場でした。ここでは先にデビュー1908したモモですがなかなか目がでません。11年ここでミス初主演の相手役として共演します。レヴューのなかで二人がからみ転げわまるシーン「びっくり仰天ワルツ」が真にせまり舞台は大好評、モモの演技も評価され恋仲にもなりました。大戦中1915捕虜になったモモがミスの奔走で16年に釈放され、ミスはモモと再共演17。25年シャンゼリゼ劇場に来演した黒人レヴュー団[ブラック・バーズ]団員ジョセフィン・ベーカーは全面改装した当ホールに招かれ、レヴュー『真昼の狂気』26では裸身にバナナの腰飾りをつけ端役たち[ガールズ]もトップレスで出演しました。それは1893年以後の裸体美競演事件などで免疫済みでした。J.ベーカー27,49。ミスの『狂乱のフォリ』33は助演フェルナンデル。ティノ・ロッシはレヴュー『世界大行進』37。ギルベール1903、Y.プランタン05、ダミア37~38。戦後はZ.ジャンメール、E.コンスタンティーヌ、パタシュ出演映画『パリの不夜城』1957で瞥見でき、レヴューが廃れてミュージカルに重点。1975年から上月晃は主役を3年間つとめ、…のち貸し劇場に? S.ヴァルタン14、マキシムL.F.14など。

 カフコンス《カジノ・ド・パリ》1868,クリシー通り16移転1890,1600席がフォリと肩を並べるのはミュージックホール化して火事1895・改築1914後。グランドレヴュー『うっちゃとけよ』17では舞台に初めて大階段が組まれ羽飾りの大スターが降りてきます。ミスタンゲットは脚線美を魅せてしずしずと、ヌードの端役も階段を上り下りそれが30年代には定番になりました。1918~40年代ミスタンゲット&シュヴァリエ共演のレヴューは『パリ・キ・リ』18、『ジャズるパリ』20。あとはミスが『ゆっくりと』22、『ざわめくパリ』23、『ボンジュール・パリ』24、『パリ・ミス』29、『輝くパリ』31はサブロンと共演、『パリの夢幻劇』37。シュヴァリエはカンカン帽姿21で『歌うパリ』25、『花咲くパリ』25、『パリ!』26、『パリの翼』27、『世界のパレード』36、『陽気なパリ』37、『ボンジュール・パリ』41,42。Y.ジョルジュ『ただパリのみ』23、J.ベーカーは『うごめくパリ』30などレヴューの主役を務めたあと『パリ-ロンドン』39でモモと共演し、一時はミスをしのぐ大スターでした。マリー・デュバ28、『セックス・アピール’32』32。ティノ・ロッシは『フランス大行進』34、『全パリは歌う』36で大スターに、晩年82の芸能生活50周年公演もここでした。

 戦後ミスタンゲットの助言「レヴューを」でリーヌ・ルノーが『愉悦Plaisirs』1959~64大記録、『パリの欲望』66。『パリ・リーヌ』76~80。芦野宏夫妻は『愉悦』公演中61.6 L.ルノーを訪ねて<いつの日かパリに>ほかデュオ録音。70~75年J.ジャンメールがレヴュー『ラ・レヴュー』、『ジジ・ジュテーム』4年連続。ほかM.ミシェル63、※ 、デュモン84、ゲンスブール85*、アダモ90,03、ルマルク94、ペイラック96、ムスタキ97、デュテイユ97、デルペシュ97、ヌガロ97、イジュラン98、レジアニ99、ニコレッタ99、J.クレール02,09、グレコ04、カブレル04,08、ブリヤン04,05,10、マキシムL.F.06,08,09,13、カース09,10、オーブレ11、ザーズ13、N.クロワジル14。

 モガドール通り25《モガドール》劇場1919, 1800席ではオペレッタ『パリの生活』1931、『白馬亭』32,47,54,61,79、ミスタンゲット37、ティノ・ロッシがオペレッタ『灼熱の恋ナポリ』58、69年に息子ローラン作の歌いり『太陽の商人』、バルバラ90、H.ヴィラール04。ロレット通り46《トマト》150席で芦野宏は3カ月出演のC.ヴォケールを1956年に鑑賞。のち彼女は初の北米公演、国内の大会場で公演など大活躍します。ヴィクトル・マセ通り12に移転後の芸術キャバレ《シャ・ノワール》1885~96,1・2階200席では作曲家ポール・デルメが自作自演も、いまは銘板のみ。クリシー大通りの中央遊歩道でプレート「プロムナード・ジョルジュ・ユルメール」を発見。歓楽街の中心広場<ピギャール>の作詞作曲者、芦野宏がオランピアで共演した歌手です。(2019.7.18) 後藤光夫©

①フォリ・ベルジェール 1928アールデコ風ファサードに
カジノ・ド・パリ 階段セットはオランピアが早い1911とか
ミスの階段ショーもフォリ・ベルジェールが先という説もあり
※79年経営危機に陥ったが、L.
ルノー続演で80年に打開した。
プロムナード・G.ユルメール
リーヌ・ルノーと芦野宏 1961.6
デュエットのシングル盤
ピギャール広場 モンマルトル 歓楽街の中心 夜はこわい
モガドール 2012 いまはミュージカル