さくらんぼの実る頃(7)パリ・コミューンの事前・事後

 「古いパリは最早ない(都市の形は 人の心よりもなお早く、ああ、変ってしまうものだ)。」

 このフレーズはよく引かれるボードレールの詩(「白鳥」『悪の華』福永武彦訳)です。パリはパリ・コミューンの前1850~60年代の20年間で、都市の中枢部から周辺まで大変貌をとげます。セーヌ県知事オスマンによる大改造です。詩人の思いをよそに、やがて世界じゅうが「花の都パリ」と憧れる下地をつくりました。めざしたのは、パリを拡大し、美化し、衛生的な街にすること。モンマルトルなど郊外11地区を編入し(1860、現在の20区に)、オペラ座やルーヴル宮殿、教会ほかの公共建築をつくり、上下水道を完備、放射状と東西・南北の幹線を真っすぐで幅広い並木道にし、橋をいくつか架け、大小の広場・公園のほか東西に2つの森を造成しました。

 直線の幅広い道路は軍隊・大砲を移動しやすくし暴動の鎮圧に役立ちますから、かつてはこの治安対策が大改造の主旨のようにいわれたものです。パリ・コミューン時に所によってはコミューン側にも有利にはたらきましたが、結局は強力な政府軍のバリケード掃討作戦を容易にしました。いまでは主目的は社会・経済を活性化するための都市空間改造だった、とされるようです。

 かつてパリは都心も下町も身分・職業・貧富のべつなく雑居していて、古い写真で建物がひしめく狭い街路に汚水が流れている光景を見ることがあります。それが高級住宅化された都心部の富裕層と郊外へ追いやられた北部・東部の貧困層に分化されたのです。これがコミューン内乱の素地をなしたといわれます。その庶民街といえば、かつて激戦地だったペール・ラシェーズ墓地、ベルヴィルあたり、その隣がメニルモンタンです。モーリス・シュヴァリエとエディット・ピアフが生まれ、訪ねた教会下のシュヴァリエ広場と予約なしで入館できなかったピアフ博物館があります。

 改造まえに戻ると、古いパリは住環境が採光も換気も希薄なため、都市も人間もいわば酸欠・窒息状態にありました。それを治すには太い動脈・血管、つまり狭くない大通りや通りにして血のめぐりをよくし、身体も共同浴場で清潔にできる快適な労働者住宅を建ててやる。オスマンを知事に任命したナポレオン3世はそんな政策をもっていたといわれます。彼は獄中生活の湿気・冷気によるリウマチ疾患で、そのような「パリの美化」思想を育んだとのことです。(鹿島茂説の要約)

 パリ・コミューン発端はモンマルトルでしたが、ここはある意味で終焉・慰霊の地でもあります。サクレ・クール教会がそのシンボルで、カトリックのベネディクト女子修道院跡地に建てられました。教会建立は普仏戦争敗北後の民心の癒しと高揚のため1870年に計画され、コミューンの内乱ではパリ大司教はじめカトリック王党派が人質として処刑され、戦闘により多数の死者を出したので、1873年に議会の決議をへて1876年着工、落成年は1889,91,1914,19など諸説。対するコミューン側(共和派)の死者1~3万、そのシンボル・自由の女神像をレピュブリック(共和国)広場ほかに立てました。市民全体の死者8~10万、この丘は国民追悼と和解の地と受けとめたい。

 サクレ・クール前はパリ全市の眺望がすばらしい観光の一大スポットです。ガイドブックではパリ一の高みですが(モンマルトルでは墓地のほうが高いとも)、標高でいえばテレグラフ129m(20区)が一番高いらしい。ベルヴィル墓地の隣ですが周りに建物が建てこんでしまい、その実感は味わえませんでした。サクレ・クールへもどり標高128m+鐘楼84mをめざし、登ろうとしたのに階段が見つかりません。だんトツに高いエッフェル塔に上ったり、ノートルダムに何度目か登ったりしたのは、2010年のパリ滞在中アイスランドの噴火で宿泊延長をよぎなくされた余禄でした。

 ウィーンは戦前にも社会民主党が市政を担当していた時期があります。1919~32年で、市域は「赤いウィーン」と呼ばれました。周りは反対党の勢力に囲まれて不穏でしたが、労働者住宅の建設に力をいれた善政を敷いております。そのひとつ大規模な住宅団地「カール・マルクス・ホーフ」が市北にあり、1980年ロマネスク、ゴシック、バロック、…の建築史めぐりで訪ねました。

 1934年のこと、解散させられた社会民主党の共和国防衛同盟が武装蜂起し、この団地に立てこもって戦いましたが、わずか5日間でオーストリア軍(緑色ファシズム)に敗れました。2カ月余、72日間で散ったパリ・コミューンにも似たあまりに短い春浅き2月の悲劇でした。(2015.12.18)後藤光夫©

 

コラム201512a
シュヴァリエ広場(ノートルダム・ラ・クロワ教会下)
コラム201512b
エディット・ピアフ広場(ピアフ博物館の東1.5km)
コラム201512c
サクレ・クール教会
テレグラフ(ベルヴィル墓地の隣)
テレグラフ(ベルヴィル墓地の隣)
コラム201512e
ウィーン カール・マルクス・ホーフ 1980